読書

読書から学ぶ#1?明け方の若者たち?

こんにちは!

このブログを開設してから自己紹介を除いて実質初めての記事投稿となります。

今回は「明け方の若者たち/カツセマサヒコ」を読んでみました。

明け方の若者たち (幻冬舎単行本)

本から学べるものは、自己啓発本だけでなく小説からでもあると思っています。

物語の主人公のエピソードを自分の経験に照らし合わせてみたり、自分ならどんな決断をしてどう切り抜けていくのか。実は学べることはたくさんあるのです。

この記事にはネタバレも含まれますのでご注意ください。

読書から学ぶ

何物にもなれない自分たち

何物にもなれない自分たち

大学時代、友達と朝日が覗くまでダラダラと飲み明かす。1人がボケて1人がツッコミ1人がそれを見て笑っている。そんなサイクルを繰り返していた日々。外は始発の電車の音が鳴り響き、自販機の横には段ボールや空き缶で溢れかえっている。居酒屋の前には大きなゴミ袋が散乱している。決して綺麗と言える景色ではない。でも、それら全てがなんだかかけがえのないものに感じる。社会人になって丸一1年。あの時の僕らは何物にもなれない自分たちを必死に肯定しながら、この街で無責任な自由をむさぼるようにして生きていた。

私も大学を卒業してもう1年と3か月が経ちました。

思い返してみると、先輩や友達と、大事な講義を抜け出して思い付きでドライブに行ったり、夜に学校でバーベキューや花火を行ったり、終電時間が過ぎた後もベロベロになるまで飲み明かし、ド田舎の線路上を談笑しながら一直線に歩いて帰ったり。

無人駅に放置された溢れたごみ箱、静かに波の音を立たせている海、川沿いでチカチカと光るホタルの群れ。そんな景色を見ながら過ごしていたあの日々は私にとってもかけがえのない思い出であり、その瞬間を全力で楽しんでいました。社会人になった今、そんな日々とは無縁なしらけた毎日を、自覚しながらも受け入れて過ごしている自分に無性に憤りを感じてしまうことがあります。かつては何物にもなれない自分を肯定していたはずが、今では、何物にもなれない自分をただただ否定するばかりです。

冷ややかな現実

冷ややかな現実

メールソフトをクリックすると、未読のメールチェックが始まった。おびただしい数の「未読」アイコンがピコピコと顔を出す。無数に発見された害虫の卵でも見た気分になって、天井に気をそらした。四日も返事をよこさない彼女を、少しは見習ってほしかった。すでに今日2桁目を迎えるため息を、大げさに吐き出す。椅子の背もたれに体をゆだねると、「あーあ」と、アホみたいな声が出た。

私は平日に連休を取ったりすることもありますが、連休明けのメールチェックは地獄です。3?40件たまったメールの中には得意先の依頼や問い合わせ、上長からの指摘メール、ノルマ達成に向けての報告の催促メールなど…メールソフトを開くだけで朝1番から疲れがドっと押し寄せてきます。

また変わり映えのない社内風景と溢れる仕事に追われながら、それとなく仕事をこなしていく。家に帰れば自分の趣味などの知りたかった情報をスマホに向かって打ち込むも空振りが続く。まだかまだかと新情報が出るのを待ちつつも、朝にはまた会社のデスクで待ってもいない複数の届いた未読メールを流し読みしていく。そして、「あーあ」とため息をつく。

自分の欲しているものは中々近づいてきてくれないのに、疎ましがっているものほどふらりと顔を覗かせてくる、そんな冷ややかな現実に幻滅してしまいます。

小さな抵抗

小さな抵抗

「捺印は、左斜めに傾けて、押すこと」ある日、上司のチェックを終えて返ってきた書類に、付箋で注意書きが残されていた。「なんでわざわざハンコを傾けて押す必要が?」。地球の裏側まで届きそうな盛大なため息と共に、自席に倒れこむ。煎餅ひとつ食べるにも咀嚼音に気を使うような正しすぎる職場に、何年経っても「慣れたくない」と意地になっている僕がいた。

正直、社会人になって「このビジネスマナーは必要か?」と思う場面は多々あります。

名刺交換はどちらが上からでどちらが下からとか、どちらから差し出すべきかとか、流れで行えば出来てしまうので特にマナーは不必要に感じています。実際の場面では、誰もがなんとなくで行ってるんじゃないでしょうか?名刺交換が一般的なマナーとは差異があったとしても、商談の中身には影響はしませんし、それだけで相手から推し量られてしまうだけの行為とは思えません。

他にも服装などは、こういう場合はネクタイはこの色で、バックはこれ。髪型はこれで・・・といったように、場面に応じてこうしなさいはおかしいと思っています。確かにスーツで清潔さを心掛けた格好は常識的に必要ですが、今の世の中には行き過ぎたビジネスマナーやそれを餌にお金を稼ぐビジネスが蔓延していると思います。

自由を求めている人がそんながんじがらめの世の中に疑問を持ち、小さくも抗うことは普通のことではないでしょうか。

こんなハズじゃない人生

こんなハズじゃない人生

自分の望んだ仕事をするために就職した会社で、やりたくない仕事をやらされている現実。定年まで続く40年間の終身雇用という穏やかな流れに身を委ね始めた自分。今日もSNSには、起業したての年下のアカウントが「増資しました」とツイートしていれば、ブログで食っていく方法とか、自分の目の前にある仕事とは到底結びつかないことばかりがタイムラインを流れていく。「こんなハズじゃなかった人生」を迎えている自分は、戦場のようなタイムラインの外側で、このまま何物にもなれず人生が終わるのではないかと、ただ悶々とする日々を過ごしていた。

きっと誰もが経験している日常の一辺ではないでしょうか。

自分は、大リーグで活躍する大谷翔平でもなければ、本田圭佑でもない。

かつてはこんな仕事をやってみたい、こんな場所で働いてみたい。

そこで働くきらきらとした自分を想像しながら飛び込んだ社会人生活。

でも実際はドラマの主人公でも何でもないその他Aの自分は、誰であっても変わらない社会の歯車の一つに組み込まれているだけの存在でしかない。結局は諦めて受け入れるしかないと思うほかない。正直私もそう感じています。だからこそ自分を変えたくて。現状維持派な私は、1歩を踏み出すために新しい夢に向かって、「転職」という道へ踏み切ろうとしているのです。

自分の軸で生きる

自分の軸で生きる

内定者時代、小さなアパレルブランドで働くことが決まっていた彼女は、「安全な道に進みたくなる気持ちは、わからなくもないけどね」と、何かを見透かすように言った。そういう彼女は、社会の評価よりも、自分の評価で行動できる人だった。僕は時にその姿が、眩しすぎて憎く感じることすらあった。

私が就活生だった頃は、もちろん自分が働いてみたいと思う業界で必死にリクナビ・マイナビの検索をかけまくって会社を探していました。ですが、少なからず大学の食品系の学科に進学したのだからその業界で会社を探すべきという気持ちが疑いもせずあったと思います。

それを身をもって感じたのが大学3年の夏のインターンです。大手企業3社のインターン選考に通り、見事枠を勝ち取って意気揚々と会社に赴きました。てっきり自分と同じような食品系の学科の学生ばかりかと思いきや、理系も文系も入り混じり、教育学部や法学部、理学部から心理学部までむしろ食品系で学んでいた人の方が少数派でした。その学生たちはみな自分の軸で生きていて、今の自分の環境に囚われることなく就職活動を行っていたのだと思います。

そんな中、私は例に漏れずそのまま食品系の会社へと就職することになりました。そこでいろいろな社会経験を積む中で、私の中での考え方や生き方も変化していることに気付き、深く考え直してみました。そこで私の中でも眠っていた「プログラミングを1から学んで仕事にしていきたい」という思いが爆発しました。

心のどこかではそれについて勉強したことないということを言い訳にその気持ちを押さえつけ、自分には縁がない分野だと決めつけて生きてきました。自分を育ててくれた会社への恩もありますが、やはり自分の評価で生きていく生き方にシフト出来る絶好の機会をこの1年に見ています。「人生の転機となる年にする!」そんな思いを胸に「自分の評価で行動できる」人間に分類されるよう懸命に努力しようと思います。

人生は打率では表さない

人生は打率では表さない

「人生は打率では表さないんだよ。野球と違って、何回打席に立ってもいいし、何回三振をとられてもいい。ただ、一度だけ特大のホームランを出す。そうしたら、それまでの三振は全てチャラになる。人生は、何回空振りしていようが、一発当たれば認められる。だから、打席には多く立った方がいいのよ、きっと。要するに環境を変える全てだよ。今よりはマシだと思う環境に飛び込もうとすることの全て。飛び込んでみて、ダメならやめる。全部、そのくらいでもいいのかもよ。バッターボックスから降りられない状況を作って、バットを振り続ければ、いつか一本くらいホームランが出る。その時まで、ひたすら三振し続ける日常を受け入れることを、”覚悟”っていうんじゃね?」

よくある表現ですが、ミスを恐れて挑戦しなければ成功もない。

シュートを打たなければ勝つことは出来ない。

失敗ばかりを繰り返す毎日でも、自分の糧となり経験となる。そしていつかの成功へとつながっていく。その失敗ばかりの毎日を受け入れる「覚悟」こそが最も大切で、持ち続けなければならない「軸」ではないでしょうか?

「当たって砕けろ」と表面上だけの陳腐な言葉をぶつけてくる人はよくいます。この小説の主人公の友達のように、社会の流れに身を任せてなんとなく生きている主人公に対して、そんな毎日を受け入れる覚悟を持つことの大切さを説くような人は中々いません。

だからこそ、周りの声や評価に晒され続けている人にとっては、何回も空振りをし続けることは簡単なことではないため「覚悟」が必要なのではないでしょうか?

逃げてもいい

逃げてもいい

「よくよく考えてみると、RPGには必ず『逃げる』ってコマンドがあるだろ。どんな勇者でも、逃げていいんだよ」退職願をヒラヒラ振りながら、親友は立ち話を続ける。大切な人は、いつも突然いなくなる。でも実は「突然」でもなんでもなくて、きっと行動や表情には見えない心の機微が積み重なって、「突然」のように見えているだけなんだ。

これもよくある話です。我慢し続けて壊れるくらいならいっそのこと逃げてしまえ。

でも実際に自分がどうしようもない状態に陥ってしまった時は、そうもいかないことの方が多いのです。

みんながそれぞれに逃げることが出来ていれば、日本がこんなに先進国の中でも幸福度指数が低い訳がないからです。その中でも現状を打開しようと動き出したごく一部の人が、環境を変え、自分を変え成功してゆくのでしょう。

そして、この小説の例えの表現は、個人的にすごく好きです。どんなに最強な勇者でも「逃げる」コマンドはありますし、嫌なら逃げることが出来ます。

ただし、「高い目標をもって目指して挑んだもの」に対しては「逃げる」という単語は思い浮かばないでしょう。世界に平和を取り戻すために、装備を揃え、レベルを上げ、満を持してラスボスの魔王に挑む勇者には「逃げる」なんて言葉は毛頭ないでしょうから。「逃げる」コマンドもボス戦ではありませんしね(笑)

 

ということで今回長い記事とはなりましたが、小説「明け方の若者たち」から色々と学ばせて頂きました。

本を読むことで、世の中にあふれている考え方や物事の捉え方を自分の中で反芻し、精査して成長していくことが出来ます。本が好きな方はもっといろいろな本を読み続け、本をあまり読まない人は、このような記事だけでも目を通してみて本の良さを知っていくきっかけにしてみてください。

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ヒロ
社会人4年目/25歳/食品商社で2年間営業した後、IT業界にシステムエンジニアとして転職/Java,PHP言語を扱う開発エンジニア